「ここ、テストに出るから線引いとけ」
そう言われて俺たちは、何も考えずに線を引いた。
何の疑いもなく、言われた通りに。
でもその線の先に、“何か大切なこと”はあったのか?
ない。
そこにあったのは、“考えない練習”だけだった。
覚えて、出して、忘れる。それで何が残る?
テストのために覚えた中国史なんて、今はほとんど思い出せない。
秦も漢も唐も、教科書の端っこで見た気はするけど、心には何も残ってない。
なんでかって?
あの勉強が、俺たちの中に“問い”を生まなかったからだ。
問いがなければ、学びじゃない
「この人物がやったことを答えよ」
「この年に起きた戦争の名前は何か」
そんなのは検索すれば一瞬で出てくる。
でも、“なぜそれが起きたのか”
“それが今にどう繋がってるのか”
そういう問いを、自分で立てる練習は一度もなかった。
だから俺たちは、何も学べなかった。
覚えて、出して、忘れて、それで勉強した気になってた。
点数に縛られて、思考は死んだ
誰よりも高い点を取るために、
誰かより劣ってることに怯えて、
正解のある問題しか解かなくなって、
問いのない頭が出来上がった。
「自分の意見を持つより、模範解答を出せる方がえらい」
それが“優等生”と呼ばれた。
勉強って、本当は命の話だろ
本当の勉強って、
「人間とは何か」
「どう生きるか」
「なぜ人は争い、信じ、失敗するのか」
そういう、人生に直結する問いを持つことじゃないのか。
歴史って、まさにそのためにある。
中国史だって、人間が国家をつくり、壊し、繋いできた記録だ。
本当は死ぬほど面白い。
でも、問いのない勉強が、それを殺した。
俺はもう一度、問いを持って学び直す
今からでも遅くない。
あの頃はわからなかったけど、今なら言える。
線を引くんじゃなくて、自分で問いを立てろ。
自分に必要な問いを、自分の中から見つけ出せ。
それが、学びの始まりだ。
俺は、心ヨガ部の部長として、
もう一度“問いを持つ練習”から始める。
お前も、そろそろ気づいてるんじゃないか?
“正解”ばっかり追いかけてた自分に。
君の感情、動画にさせてくれ。 部長、マジでその感情、受け止める。